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第二話 隣の部屋のあの人

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-04-02 11:00:09

 信じられない。

 自分がワンナイトしたことも信じられないが、相手が隣の部屋の住人だという事実は、なおさら信じられない。

 真尋は部屋に飛び込んだ勢いのまま、玄関にぺたりとへたりこんで頭を抱えた。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。

 あの人、出会った人とすぐに寝るんですよ、なんて噂を流されないだろうか。いや、そんなことをしたら自分が真尋と寝たこともバレるから、それはない。

 尻軽な男だと思われて、また誘われはしないだろうか。ちょうどいい性欲のはけ口にされても困る。

 ああ、もう、昨日の俺! なんてことしたんだ!

 けれど、やってしまったことは取り返しがつかない。

 のろのろと立ち上がり、ソファに座った。テーブルの上には、昨日飲みかけのコーヒーが放置されている。すっかり冷めきったマグカップが、自分の心境を表しているようで嫌だった。

 急いで仕事に行く準備をしないといけないのに、そんな気力が湧かない。

 そのとき、壁の向こうから足音が聞こえた。

 真尋はびくりと肩を震わせた。

 しばらく隣が空室だったから、生活音なんて気にしたことがなかった。けれど、このマンションは壁が薄い。足音だけじゃない。シャワーの水音、なにかを調理しているらしい鍋の音、それから鼻歌。低くて心地のいいメロディが、薄い壁越しに聞こえてくる。

 そのたびに、昨夜のことが蘇った。

 耳元で「真尋」と囁かれた声。あの声と同じ声が、今、壁一枚向こうにある。大きくてあたたかい手で触れられたときの感覚が、腕にまだ残っているような気がして、真尋は自分の二の腕をぎゅっと握った。

 だめだ。思い出すな。

 けれど意識すればするほど、壁の向こうの気配が輪郭を持って迫ってくる。水が止まった。タオルで体を拭いているのだろうか。足音がキッチンのほうに移動する。冷蔵庫が開く音、閉まる音。その生活音のひとつひとつが、昨夜あの手で自分に触れた男のものだと思うと、頭がおかしくなりそうだった。

 向こうの音がこれだけ聞こえるということは、こちらの音も同じぐらい聞こえているということだ。ワンナイトの相手に自分の生活リズムが筒抜けなんて、考えただけでぞっとする。

 とはいえ、引っ越したいかというと、それも無理だ。職場まで電車で二十分だし、目黒区で家賃八万の1Kなんてそうそう見つからない。

「大丈夫。隣だからって頻繁に会うわけじゃないんだから」

 そう自分に言い聞かせたが、不安は募るばかりだった。

 いつまでもうじうじ悩んでいても仕方がない。とっととシャワーを浴びて仕事に行こう。真尋は気持ちを切り替えた。

 熱めのシャワーを浴びると、少しだけ頭がすっきりした。身支度を済ませ、部屋のゴミを集めて袋に詰める。今日は土曜日だが、書店に休日はない。

 玄関のドアに鍵をかけているとき、エレベーターの到着音が鳴った。慌ててそちらに向かうと、出てきたのは隣の住人、一ノ瀬晃だった。コンビニの袋を片手にぶら下げている。パーカーにスウェット、足元はサンダル。そして黒縁のウェリントン型メガネ。

 昨夜のスーツ姿とはまるで別人だった。いや、別人のほうがよかった。スーツのときはクールで隙がなかったのに、メガネにパーカーだと妙に親しみやすくて、隣に住んでいる人間としての生活感がある。それがかえって困る。

「……あ」

 めったに会うことはないだろうとたかを括っていたのに、こんなにすぐ再会するとは。顔から血の気が引いた。逃げたい。でも逃げたら意識していることがバレる。

「おはようございます、真尋さん」

 晃は昨夜のことなどなかったかのように、にこりと笑った。メガネの奥の切れ長の目が、昨夜よりもやわらかく見える。

 真尋はうつむきながら、やっとのことで声を絞り出した。

「……昨日のことは……忘れてください」

 一瞬の沈黙。息を呑む気配が伝わってきた。

「忘れたくないんですけど」

 まっすぐな声だった。

 晃の手が伸びてきて、真尋の右後頭部にそっと触れた。いつもはねている寝癖のあたりを、指先でなぞるように。ぞわりと背筋が痺れた。

「すごく、よかったから」

 耳元で囁かれると、昨夜の感覚が生々しく蘇る。熱い吐息が耳にかかって、鳥肌が立った。

「もっと、真尋のこと、知りたいな」

 晃はそう言うと、ぱっと手を離した。一歩下がって、なにごともなかったような顔で笑う。

「お仕事頑張ってくださいね」

 手をひらひらと振って、自分の部屋に入っていく。バタン、とドアが閉まった。

 廊下に取り残された真尋は、数秒間、動けなかった。

 右耳に手をやる。晃の息がかかったところが、じんと熱い。心臓がまだうるさい。

 ……いや、おかしくない? 今の距離感。

 初対面で寝た翌朝にあの距離で囁いてくるのは、どう考えても普通じゃない。

 なんだってんだよ。ワンナイトの相手にあんなことされたら、意識するに決まってるだろ。

 意識なんかしてない。断じて、していない。

 エレベーターに乗り込んで、ドアが閉まった瞬間にふうっと大きく息を吐いた。ガラスに映った自分の顔は、耳まで赤い。

 けれど、晃の言うとおり、よかったのは事実で。

 新宿二丁目のホテルに入った。

 部屋に入るなり、晃が深くキスをしてきた。まるで、気持ちが溢れすぎて待ちきれないとばかりに。

 くちゅ、と水音が響く。その音を聞くだけで、腹の奥がじんとうずいた。

 セックスをするのはいつぶりだろう。

 響と別れる数か月前から、もうそういう関係は途絶えていた。一年近くも誰にも触れていない。

 今夜だけ、この一回だけ。そうやって自分に言い訳をした。響を忘れたかった。「お前は重い」と冷たく突き放された記憶を、別の誰かの体温で上書きしたかった。誰でもよかったはずだ。たまたま隣の席にいて、本の話が合った男。そんな相手でよかった。

 そう思おうとしたのに。

 シャワーを浴びて、ベッドになだれ込んだ。

 晃は真尋の上にまたがり、頬を赤らめていた。ワンナイトの相手を見る目じゃなかった。まるで愛おしい人を見つめるように目を細めて、やさしい手つきで愛撫をする。大きな掌が肌を這うたび、触れたところから熱が広がっていく。

「……真尋」

 切ない声で名前を呼ばれた。こんなふうに呼ばれたことは、響にだってなかった。

 晃は丁寧にキスを落としていった。首筋、鎖骨、胸、腹。唇が触れるたびに甘い痺れが走って、背中が弓なりに反る。

「んんっ……」

「敏感だね」

 肌のそばで低く囁かれ、息がかかる。それだけで下腹がきゅっとうずいた。

 晃は真尋の隅々まで愛でた。これ以上大切なものをどうやって扱えばいいのかと惑うみたいに、ゆっくりと、丁寧に。

 ワンナイトの相手にこれほど丁寧にする男がいるのだろうか。たいていの男は、ヤれればそれでいい。真尋だって、今夜はそのつもりで来たはずだ。

 なのに、晃の手はまるで壊れものに触れるようで、戸惑うほどやさしかった。

 そして、それ以上に、からだの相性がよすぎた。合わさった肌が心地いい。晃の首に腕を回すと、互いの体が凹と凸のようにぴったりとはまった。

 キスも上手かった。舌で口の中を蹂躙されるたびに、思考がとろとろに蕩けていく。だからつい、何度もキスをねだってしまった。そのたびに晃はふっとやわらかくほほえんで、応えてくれた。

 ひとつになったとき、それだけで達してしまった。酔っているからだと思いたかったが、たぶん違う。奥を突かれるたびに、意識が白く飛びそうになる。

「も、もっと……」

 晃の首にしがみついてねだると、息を荒くしながら腰を打ちつけてくれた。

 気持ちいい。こんなに気持ちいいセックスは初めてだった。

 最後に熱が弾けたとき、自分から口を寄せてキスをした。響のことなんて、一瞬も頭に浮かばなかった。

 忘れるための行為だったはずなのに。代わりに刻まれたのは、晃の体温と、名前を呼ぶ声と、素顔だった。

 それが少しだけ、こわかった。

 仕事中に昨夜のことを思い出してしまって、思わず赤面した。

 なにをやってるんだ。仕事中だぞ。

 新刊の棚を整理しながら、必死に意識を目の前の作業に向けようとする。けれど、思い出すだけで下腹がうずく。

 だめだ。もう二度と寝ないんだから。思い出すな。

 接客中なのに、耳の奥に晃の声が蘇る。

「もっと、真尋のこと、知りたいな」

 低くて耳心地のよい声。あの声で名前を呼ばれたときの背筋の震えを、真尋の体が覚えてしまっている。

「柊くん、大丈夫? 顔赤いけど」

 同僚に声をかけられて、真尋は慌てて「大丈夫です。ちょっと暑くて」とごまかした。五月の書店が暑いわけがない。

 昼休みに、颯太にメッセージを送った。

『昨日のバーで会った人、隣の部屋の住人だった』

 既読がついた瞬間、電話がかかってきた。

「は? マジで言ってんの?」

「マジ。今朝、廊下で会った」

「お前……やらかしたな」

 颯太が盛大に笑っている。笑い事じゃない。

「笑うなよ。どうすればいいんだ」

「どうもこうもないだろ。普通にしてりゃいいんだよ。大人なんだから」

「普通にできるなら電話してない」

「……お前、やっぱおもしれーな」

 ぜんぜん助けにならなかった。

「ああ……なんか仕事に集中できなかったな……」

 夕方、真尋は重い足を引きずりながらマンションに戻った。昨夜のことばかり思い出して、今日はまるで仕事にならなかった。棚に差す本も間違えるし、レジでお釣りも間違えるし、散々だった。先輩に「体調悪いなら早退していいよ」と心配されたのが情けない。体調が悪いんじゃない。頭の中が隣人でいっぱいなだけだ。

 だめだな。ワンナイトは俺には向いてない……。

 ため息をついてエレベーターを降りる。早く部屋に入って、コーヒーでも淹れて落ち着こう。深煎りの豆を丁寧にハンドドリップする時間だけが、今の真尋にとって確かな日常だった。

 廊下を歩きながら、無意識に隣の部屋のドアに目が行く。シン、と静まり返っている。出かけているのだろうか。土曜の夜だ。誰かと飲みに行っているのかもしれない。

 ……別に、気になってるわけじゃない。

 自分の部屋のドアノブに、紙袋が下がっている。

「え? なんだろ」

 ガサガサと中を覗くと、プラスチック容器がいくつも入っていた。ひとつを取り出してみると、中にはおかずが詰まっている。

 メモが添えてあった。

『作りすぎたので。よかったらどうぞ。一ノ瀬』

 几帳面だがどこかやわらかい筆跡だった。

 部屋に入り、中身をすべて確認する。ひじき、筑前煮、きんぴらごぼう。どれも丁寧に作られた和食の惣菜ばかりだ。

 真尋は首をかしげた。

 これ、全部、俺の好物だ。

 偶然にしてはできすぎている。でも、昨日会ったばかりの人間が好物を知っているはずがない。たまたまだろう。きっと、たまたま。

 ひとくち食べてみると、しみじみとおいしかった。筑前煮の味付けは濃すぎず薄すぎず、ちょうど真尋の好みだ。きんぴらはシャキシャキと歯ごたえがよく、ひじきはほどよい甘さに仕上がっている。コンビニ弁当ばかりの食生活に、手作りの惣菜のあたたかさが沁みる。

 気づけば全部食べてしまっていた。

 なんでこんなことしてくれるんだろう。

 昨日、寝たから?

 でも、たまたま隣に住んでいるワンナイトの相手に、こんなことをするだろうか。普通はしない。少なくとも、真尋の知っている「普通」の範囲では。

 プラスチック容器の蓋を閉めながら、真尋は壁の向こうに目を向けた。かすかに、なにかの音楽が聞こえる気がする。

 ……別にいいけど。おいしかったし。

 空になったプラスチック容器を洗って返すべきか、それともこのまま知らんぷりするべきか。真尋はわけがわからなくて、結局また頭を抱えた。

 壁の向こうから、また鼻歌が聞こえる。昼間と同じ、低くて心地のいいメロディ。

 不覚にも、そのメロディが嫌いじゃないと思ってしまった自分に気づいて、真尋は枕に顔を埋めた。

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