LOGIN信じられない。
自分がワンナイトしたことも信じられないが、相手が隣の部屋の住人だという事実は、なおさら信じられない。
真尋は部屋に飛び込んだ勢いのまま、玄関にぺたりとへたりこんで頭を抱えた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
あの人、出会った人とすぐに寝るんですよ、なんて噂を流されないだろうか。いや、そんなことをしたら自分が真尋と寝たこともバレるから、それはない。
尻軽な男だと思われて、また誘われはしないだろうか。ちょうどいい性欲のはけ口にされても困る。
ああ、もう、昨日の俺! なんてことしたんだ!
けれど、やってしまったことは取り返しがつかない。
のろのろと立ち上がり、ソファに座った。テーブルの上には、昨日飲みかけのコーヒーが放置されている。すっかり冷めきったマグカップが、自分の心境を表しているようで嫌だった。
急いで仕事に行く準備をしないといけないのに、そんな気力が湧かない。
そのとき、壁の向こうから足音が聞こえた。
真尋はびくりと肩を震わせた。
しばらく隣が空室だったから、生活音なんて気にしたことがなかった。けれど、このマンションは壁が薄い。足音だけじゃない。シャワーの水音、なにかを調理しているらしい鍋の音、それから鼻歌。低くて心地のいいメロディが、薄い壁越しに聞こえてくる。
そのたびに、昨夜のことが蘇った。
耳元で「真尋」と囁かれた声。あの声と同じ声が、今、壁一枚向こうにある。大きくてあたたかい手で触れられたときの感覚が、腕にまだ残っているような気がして、真尋は自分の二の腕をぎゅっと握った。
だめだ。思い出すな。
けれど意識すればするほど、壁の向こうの気配が輪郭を持って迫ってくる。水が止まった。タオルで体を拭いているのだろうか。足音がキッチンのほうに移動する。冷蔵庫が開く音、閉まる音。その生活音のひとつひとつが、昨夜あの手で自分に触れた男のものだと思うと、頭がおかしくなりそうだった。
向こうの音がこれだけ聞こえるということは、こちらの音も同じぐらい聞こえているということだ。ワンナイトの相手に自分の生活リズムが筒抜けなんて、考えただけでぞっとする。
とはいえ、引っ越したいかというと、それも無理だ。職場まで電車で二十分だし、目黒区で家賃八万の1Kなんてそうそう見つからない。
「大丈夫。隣だからって頻繁に会うわけじゃないんだから」
そう自分に言い聞かせたが、不安は募るばかりだった。
いつまでもうじうじ悩んでいても仕方がない。とっととシャワーを浴びて仕事に行こう。真尋は気持ちを切り替えた。
熱めのシャワーを浴びると、少しだけ頭がすっきりした。身支度を済ませ、部屋のゴミを集めて袋に詰める。今日は土曜日だが、書店に休日はない。
玄関のドアに鍵をかけているとき、エレベーターの到着音が鳴った。慌ててそちらに向かうと、出てきたのは隣の住人、一ノ瀬晃だった。コンビニの袋を片手にぶら下げている。パーカーにスウェット、足元はサンダル。そして黒縁のウェリントン型メガネ。
昨夜のスーツ姿とはまるで別人だった。いや、別人のほうがよかった。スーツのときはクールで隙がなかったのに、メガネにパーカーだと妙に親しみやすくて、隣に住んでいる人間としての生活感がある。それがかえって困る。
「……あ」
めったに会うことはないだろうとたかを括っていたのに、こんなにすぐ再会するとは。顔から血の気が引いた。逃げたい。でも逃げたら意識していることがバレる。
「おはようございます、真尋さん」
晃は昨夜のことなどなかったかのように、にこりと笑った。メガネの奥の切れ長の目が、昨夜よりもやわらかく見える。
真尋はうつむきながら、やっとのことで声を絞り出した。
「……昨日のことは……忘れてください」
一瞬の沈黙。息を呑む気配が伝わってきた。
「忘れたくないんですけど」
まっすぐな声だった。
晃の手が伸びてきて、真尋の右後頭部にそっと触れた。いつもはねている寝癖のあたりを、指先でなぞるように。ぞわりと背筋が痺れた。
「すごく、よかったから」
耳元で囁かれると、昨夜の感覚が生々しく蘇る。熱い吐息が耳にかかって、鳥肌が立った。
「もっと、真尋のこと、知りたいな」
晃はそう言うと、ぱっと手を離した。一歩下がって、なにごともなかったような顔で笑う。
「お仕事頑張ってくださいね」
手をひらひらと振って、自分の部屋に入っていく。バタン、とドアが閉まった。
廊下に取り残された真尋は、数秒間、動けなかった。
右耳に手をやる。晃の息がかかったところが、じんと熱い。心臓がまだうるさい。
……いや、おかしくない? 今の距離感。
初対面で寝た翌朝にあの距離で囁いてくるのは、どう考えても普通じゃない。
なんだってんだよ。ワンナイトの相手にあんなことされたら、意識するに決まってるだろ。
意識なんかしてない。断じて、していない。
エレベーターに乗り込んで、ドアが閉まった瞬間にふうっと大きく息を吐いた。ガラスに映った自分の顔は、耳まで赤い。
けれど、晃の言うとおり、よかったのは事実で。
*
新宿二丁目のホテルに入った。
部屋に入るなり、晃が深くキスをしてきた。まるで、気持ちが溢れすぎて待ちきれないとばかりに。
くちゅ、と水音が響く。その音を聞くだけで、腹の奥がじんとうずいた。
セックスをするのはいつぶりだろう。
響と別れる数か月前から、もうそういう関係は途絶えていた。一年近くも誰にも触れていない。
今夜だけ、この一回だけ。そうやって自分に言い訳をした。響を忘れたかった。「お前は重い」と冷たく突き放された記憶を、別の誰かの体温で上書きしたかった。誰でもよかったはずだ。たまたま隣の席にいて、本の話が合った男。そんな相手でよかった。
そう思おうとしたのに。
シャワーを浴びて、ベッドになだれ込んだ。
晃は真尋の上にまたがり、頬を赤らめていた。ワンナイトの相手を見る目じゃなかった。まるで愛おしい人を見つめるように目を細めて、やさしい手つきで愛撫をする。大きな掌が肌を這うたび、触れたところから熱が広がっていく。
「……真尋」
切ない声で名前を呼ばれた。こんなふうに呼ばれたことは、響にだってなかった。
晃は丁寧にキスを落としていった。首筋、鎖骨、胸、腹。唇が触れるたびに甘い痺れが走って、背中が弓なりに反る。
「んんっ……」
「敏感だね」
肌のそばで低く囁かれ、息がかかる。それだけで下腹がきゅっとうずいた。
晃は真尋の隅々まで愛でた。これ以上大切なものをどうやって扱えばいいのかと惑うみたいに、ゆっくりと、丁寧に。
ワンナイトの相手にこれほど丁寧にする男がいるのだろうか。たいていの男は、ヤれればそれでいい。真尋だって、今夜はそのつもりで来たはずだ。
なのに、晃の手はまるで壊れものに触れるようで、戸惑うほどやさしかった。
そして、それ以上に、からだの相性がよすぎた。合わさった肌が心地いい。晃の首に腕を回すと、互いの体が凹と凸のようにぴったりとはまった。
キスも上手かった。舌で口の中を蹂躙されるたびに、思考がとろとろに蕩けていく。だからつい、何度もキスをねだってしまった。そのたびに晃はふっとやわらかくほほえんで、応えてくれた。
ひとつになったとき、それだけで達してしまった。酔っているからだと思いたかったが、たぶん違う。奥を突かれるたびに、意識が白く飛びそうになる。
「も、もっと……」
晃の首にしがみついてねだると、息を荒くしながら腰を打ちつけてくれた。
気持ちいい。こんなに気持ちいいセックスは初めてだった。
最後に熱が弾けたとき、自分から口を寄せてキスをした。響のことなんて、一瞬も頭に浮かばなかった。
忘れるための行為だったはずなのに。代わりに刻まれたのは、晃の体温と、名前を呼ぶ声と、素顔だった。
それが少しだけ、こわかった。
*
仕事中に昨夜のことを思い出してしまって、思わず赤面した。
なにをやってるんだ。仕事中だぞ。
新刊の棚を整理しながら、必死に意識を目の前の作業に向けようとする。けれど、思い出すだけで下腹がうずく。
だめだ。もう二度と寝ないんだから。思い出すな。
接客中なのに、耳の奥に晃の声が蘇る。
「もっと、真尋のこと、知りたいな」
低くて耳心地のよい声。あの声で名前を呼ばれたときの背筋の震えを、真尋の体が覚えてしまっている。
「柊くん、大丈夫? 顔赤いけど」
同僚に声をかけられて、真尋は慌てて「大丈夫です。ちょっと暑くて」とごまかした。五月の書店が暑いわけがない。
昼休みに、颯太にメッセージを送った。
『昨日のバーで会った人、隣の部屋の住人だった』
既読がついた瞬間、電話がかかってきた。
「は? マジで言ってんの?」
「マジ。今朝、廊下で会った」
「お前……やらかしたな」
颯太が盛大に笑っている。笑い事じゃない。
「笑うなよ。どうすればいいんだ」
「どうもこうもないだろ。普通にしてりゃいいんだよ。大人なんだから」
「普通にできるなら電話してない」
「……お前、やっぱおもしれーな」
ぜんぜん助けにならなかった。
「ああ……なんか仕事に集中できなかったな……」
夕方、真尋は重い足を引きずりながらマンションに戻った。昨夜のことばかり思い出して、今日はまるで仕事にならなかった。棚に差す本も間違えるし、レジでお釣りも間違えるし、散々だった。先輩に「体調悪いなら早退していいよ」と心配されたのが情けない。体調が悪いんじゃない。頭の中が隣人でいっぱいなだけだ。
だめだな。ワンナイトは俺には向いてない……。
ため息をついてエレベーターを降りる。早く部屋に入って、コーヒーでも淹れて落ち着こう。深煎りの豆を丁寧にハンドドリップする時間だけが、今の真尋にとって確かな日常だった。
廊下を歩きながら、無意識に隣の部屋のドアに目が行く。シン、と静まり返っている。出かけているのだろうか。土曜の夜だ。誰かと飲みに行っているのかもしれない。
……別に、気になってるわけじゃない。
自分の部屋のドアノブに、紙袋が下がっている。
「え? なんだろ」
ガサガサと中を覗くと、プラスチック容器がいくつも入っていた。ひとつを取り出してみると、中にはおかずが詰まっている。
メモが添えてあった。
『作りすぎたので。よかったらどうぞ。一ノ瀬』
几帳面だがどこかやわらかい筆跡だった。
部屋に入り、中身をすべて確認する。ひじき、筑前煮、きんぴらごぼう。どれも丁寧に作られた和食の惣菜ばかりだ。
真尋は首をかしげた。
これ、全部、俺の好物だ。
偶然にしてはできすぎている。でも、昨日会ったばかりの人間が好物を知っているはずがない。たまたまだろう。きっと、たまたま。
ひとくち食べてみると、しみじみとおいしかった。筑前煮の味付けは濃すぎず薄すぎず、ちょうど真尋の好みだ。きんぴらはシャキシャキと歯ごたえがよく、ひじきはほどよい甘さに仕上がっている。コンビニ弁当ばかりの食生活に、手作りの惣菜のあたたかさが沁みる。
気づけば全部食べてしまっていた。
なんでこんなことしてくれるんだろう。
昨日、寝たから?
でも、たまたま隣に住んでいるワンナイトの相手に、こんなことをするだろうか。普通はしない。少なくとも、真尋の知っている「普通」の範囲では。
プラスチック容器の蓋を閉めながら、真尋は壁の向こうに目を向けた。かすかに、なにかの音楽が聞こえる気がする。
……別にいいけど。おいしかったし。
空になったプラスチック容器を洗って返すべきか、それともこのまま知らんぷりするべきか。真尋はわけがわからなくて、結局また頭を抱えた。
壁の向こうから、また鼻歌が聞こえる。昼間と同じ、低くて心地のいいメロディ。
不覚にも、そのメロディが嫌いじゃないと思ってしまった自分に気づいて、真尋は枕に顔を埋めた。
真尋の仕事終わりが晃の退勤時間と重なる日は、必ず晃が栞堂に迎えにきてくれる。一緒に帰るのが当たり前になっていた。 隣人だったときも同じ場所に帰っていたのだが、今は同じ部屋に帰る。玄関に入ると、「ただいま」「おかえり」をお互いに言い合って、キスをする。その瞬間がうれしくてたまらない。 今日はまさに、晃が迎えにくる日だった。 腕時計を確認すると、退勤時間まであと十分。もうすぐ晃に会えると思うと、真尋は商品補充にも熱がこもった。毎日部屋で顔を合わせているのに、おかしな話だ。 ワゴンに乗せてある本を次々に棚に入れていく。時間いっぱいまで、できるだけ本を補充しようと真剣に取り組んでいると、ととと、と足音が聞こえた。この足音の主は、POPイケメン追跡班の班長、山田さんだ。追跡する必要はなくなったはずなのに、どうしたのだろうか。「柊さん、柊さん」 振り向くと、やはり山田さんがそこに立っていた。「どうしたの?」「POPイケメンさん、もとい、柊さん彼氏さんが来ていますよ」「ああ、今日くるって約束してたから。外で待ってるんでしょ?」「いえ。店内にいらっしゃいます」「え?」 付き合いはじめてから、店にくるときには事前に連絡をくれていた。今日のように帰る時間が同じときは、いつも外で待ってくれている。なのに、急にどうしたんだろうか。「なんだか、不審な動きをしてるんですよね」 山田さんはわざと声をひそめてみせた。眉間に皺を寄せて、追跡班としての職務に戻ったような顔だ。「不審な動き?」「とりあえず、ご自分の目で。班長としてお伝えするのは、ここまでです」 山田さんはそれだけ言うと、踵を返して別の棚へ消えていった。班長の仕事はここまで、ということらしい。 別に、不思議なことではないはずだ。本好きの晃のことだ。真尋を待っているあいだに、おもしろそうな本を物色しているのかもしれないから。 真尋は手早く補充を完了して、ワゴンをバックヤードに置きに行った。そしてそのまま店内の在庫を確認するふりをして、
新居に引っ越して一週間が経った。朝、目を覚ますと隣に晃がいる。そのたびに、これは夢なのではないかと思うし、毎朝幸せな気持ちになる。まだこの状況に慣れない自分に呆れさえするが、それと同時に毎日が新鮮で愛おしい。 壁の向こうから聞こえる気配ではなく、肌で感じる体温。それが当たり前になるのに、もうすこし時間がかかりそうだ。 真尋は横ですうすうと寝息を立てている晃を起こさないように、そっとベッドを抜け出そうとした。ふいに手首を掴まれて、晃の胸のなかに引きずり込まれる。「おはよう、真尋」 晃の胸に抱きしめられて、朝から心臓に悪い。けれど、これも新しい日常なのだ。「おはよう、晃」 名前を呼び捨てるのにも、ようやく慣れてきた。最初の数日は、口を開くたびに「真尋さん」「晃さん」と「さん」がつきそうになって、お互いに笑い合ったものだった。今はもう、すんなり呼べる。それだけで、世界がすこし新しくなる。 晃の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。そうすれば、晃は同じか、それ以上の力を込めて抱きしめ返してくれる。いつも同じ気持ちでいられるのが、心地いい。「なんでひとり先に起きようとしてたん」 すこし拗ねた声が、頭の上から降ってきた。先に起きようとしただけだ。たったそれだけのことでも、一分一秒でもくっついていたい気持ちがある晃には、許せないのだろう。 真尋はくすくすと笑った。「だって、気持ちよさそうに寝てたよ?」「起こしてくれたらええやんかぁ」 甘えた声。一緒に暮らすようになって、晃は甘えるのが好きなのだと知った。それは真尋も同じで、甘やかしてほしいときには晃に甘やかしてもらい、晃が甘えたいときには、たっぷり甘やかす。持ちつ持たれつの関係だ。「睡眠は大事。ちゃんと寝れるときは、しっかり寝ないと」「ほな、もうちょい一緒に寝よ?」「だめ。今日は俺、出勤時間早いから」「ええー。しゃあないなぁ」 晃は真尋にチュッと音の出るキスをすると、むくっと起きた。明らかに眠たそうな顔をしている。寝起きの晃の髪は、相変わら
真尋はベッドにごろんと横になった。天井をぼんやりと見つめる。この部屋に思い入れは特にない。ただ、職場から近くて、安い物件だっただけだ。けれど実際に明日、この部屋を離れると思うと、なんとなくさみしく感じた。 新居では、晃とふたりで寝るためのダブルベッドを購入した。このシングルベッドも明日には処分する。この狭いベッドで、何度も晃と愛し合った。嫉妬に駆られて、無理やりに近い形で抱かれたこともある。恋人になってからは、大切に、やさしく、宝物のように扱ってくれた。 シングルベッドは狭すぎて、大人の男がふたりで寝るには窮屈だった。けれど、くっついて眠ることができた。いつも晃の大きな胸のなかに抱かれて眠るのが、好きだった。ベッドが大きくなっても、またくっついて寝たいな。そんなことを考えていたら、急に腹の奥が疼いてきた。「やばっ。明日朝早いから、早く寝たいのに」 スウェットの上から股間に手をやると、ゆるく兆しはじめている。晃の息遣いや手の動きを想像してしまったからだろうか。このまま寝ても、きっと中心がさらに熱を持って、目が冴えるに決まっている。 仕方ない。抜くか。 下着のなかに手を入れようとしたとき、スマホが震えた。画面を確認すると、晃からの着信だった。真尋はそれを見てビクッとした。 ――晃さんのことを想像して抜こうとしてたの、バレた? ドキドキしながら電話に出た。「晃さん?」「今、大丈夫?」「う、うん……」「ごめん。明日早いから、もう寝るとこやったやろ?」「ま、まあ、そうなんだけどさ……」 歯切れの悪い返事しかできない。晃に変に思われているのではないかと、背中に冷たいものが降りてきた。 いや、別にやましいことはしていない。青年男子なら、誰にでも起こる生理現象だ。「あのさ……」「うん?」「今から、そっち行ってもええ?」 晃が遠慮がちに聞いてきた。明日の朝は八時から荷出しがはじまる。だから本当は
晃に「大切な話がある」と言われて、真尋はごくりと唾を飲み込んだ。緊張が走り、手先が急に冷たくなる。なにか自分がしただろうかと思い返すが、なにも思い浮かばない。どくどくと耳の奥で、血流の流れる音がやけに大きく響いた。「あのさ――」 真尋は息を呑んだ。次にどんな言葉がくるのかと、そのまま息を詰める。キュッと拳を握ると、自然に関節が白く浮かんだ。 晃の表情は、これまで見たどの晃とも違っていた。仕事モードでもない。ふだんのポンコツでもない。なにかをこの上ない真剣さで言おうとしている、覚悟の顔だ。「俺たち、一緒に暮らさへん?」 思いもよらない提案に、耳を疑った。「え?」「あ、急にごめんな。実は、付き合いはじめてからずっと思っててん。隣同士でもええねんけど……その、俺はずっと真尋さんと一緒にいたいねん」 晃は恥ずかしそうに首の後ろをかいた。「……えっと」 真尋はまだ晃の言葉を飲み込むことができずにいた。一緒に暮らす。隣人ではなくなる、ということだ。「いや、その、今すぐってわけやないねん。っていうか、一緒に暮らせたらええな、って思っただけやし」 晃は慌てて両手を振った。 一緒に暮らす。言葉を小さく口のなかで転がすと、その意味がじんわりと胸に染みこんでくる。 仕事に行く前も、家に帰ってからも、晃が家にいる。お互いの家を行き来する必要がなくなるのだ。いや、隣同士なのだから、行き来はそんなに手間ではない。けれど、すぐに会いたいとき、一分一秒も待てないとき、待たなくてもいい。いつも晃がそばにいる。「好き」と言いたいときに隣にいて、抱きつきたいときには抱きつける。そして触れ合いたいときにも、手の届くところにいる。 こんなにも真尋は独占欲が強かっただろうか。自分らしくいられる晃の隣は、居心地がいい。自分の重い気持ちも受け取ってもらえるのが、心地いい。 響と付き合っていた三年間、真尋は同棲の話を一度もしなかった。したいと思ったこともなかった気がする。一緒に暮らしたら、自分の重さが
オーナーからのゴーサインが出た。真尋は早速、颯太に手伝ってもらいながら店のSNSを作成し、イベントを告知した。晃のアイデアは、真尋が書いたPOPをSNSに投稿することだった。真尋はそんなことでいいのかと半信半疑だったが、予想を上回る反響に驚いた。『なに? このイベント! 神!』『参加したい!』『気になる!』 次々とコメントがついて、たくさんの人が真尋のPOPを見てくれているのだと思うと、真尋は胸が熱くなった。書店員になってからずっと、夜中に下書きをしては書き直してきたあの一枚一枚の紙が、こうしてはじめて遠くの誰かの目に届いている。それが、不思議で、うれしくて、すこしだけ照れくさかった。 真尋は片桐にも同じ原稿を渡し、月虹のSNSでも告知してもらった。月虹には相当数のフォロワーがいるので、すぐに反応があった。バーの常連客が投稿を拡散してくれて、瞬く間にイベントの告知は広がっていった。 月虹のSNSでは、イベントの告知に加えて、座談会の登壇者も募集した。すると、おもしろそうだから出てみたい、とセクシュアリティをオープンにしているお客さんから連絡が入った。 ありがたい。事前にこれほど反響があるとは思っていなかった。できるだけ多くの人に座談会で話してもらいたいが、人数が多すぎると話がまとまらず、せっかくの企画が台無しになる可能性もある。 月虹の定休日に、真尋、晃、片桐、颯太の四人で会議を行った。会議といっても、ただみんなで集まって飲んでいるだけなのだが。「片桐さん、お客さんでこの人なら大丈夫っていう人、このなかにいる?」 真尋は、月虹のSNSのコメントや個別メッセージで立候補してくれた人たちのアカウント名を見ながら、片桐に聞いた。真尋には誰が誰だかさっぱりわからないし、実際に接客している片桐のほうが、その人となりをよく知っているはずだと思ったからだ。「んー、せやな。けっこうみんなどぎついこと話してくれるとは思うねんけど。真尋さんはこの座談会、どんな感じにしたいん?」「BL小説や漫画が好きな女性がターゲットだから、できるだけ内輪受けにならない方向で行きたいんです」
「オペレーション・グッドネイバー」という言葉が片桐の口から出ると、晃の様子が一気におかしくなった。晃は必死に阻止しようとしていたが、片桐は風に揺れるのれんのように、のらりくらりとかわしている。「もう、ええんやって。真尋さんと付き合うことできてんから!」「せやから話すんやんか。暴露したほうが楽しいやろ?」「裏話は話さへんからええんやんか」「いや、それはちゃう。知ってもらうことで、その内容の奥深さを理解してもらえるんや」 よくわからないが、片桐と晃がやいやい言い合っているのを見ると、そのオペレーションに相当気合を入れていたのだろうと思えてきた。 月虹のカウンターの奥で、間接照明がアンバー色の光を揺らしている。今日は店の定休日だ。普段ならカクテルの注文が飛び交うこの空間に、今は四人しかいない。テーブルに置かれたタパスの皿はおおかた空になり、グラスのなかの氷だけが、ちりっと小さな音を立てる。 颯太はひとり、静かに酒を飲んでいる。いつもなら真尋に害が及ばないよう、周りに目を光らせているはずだ。だが、今夜は様子がおかしい。それに、いつもなら「オペレーション・グッドネイバーってなんだ!」と食ってかかるはずなのに、今夜はおとなしくグラスを傾けている。それも気になる。「颯太、なんかあったのか?」「なんでだ」「いや、なんかいつもと違うっていうか。だいたい晃さんのこと、あれだけ警戒してたのに、今はそれもなくなったから」 颯太はカクテルグラスの縁を指でなぞった。「うん、まあ、いけすかんやつだが、真尋が好きになった相手だしな。それにまあ、いろいろ話を聞けば、悪いやつじゃなさそうだし……」 なんとなくいつもより歯切れの悪い返事を不審に思ったが、真尋は「そっか」とだけ返した。「ことの発端は、二年ほど前のことです」 片桐がまるで講談師のように語りはじめた。張り扇がないので、代わりにパン、と手でテーブルを叩く。「ある日のことでございます。一ノ瀬晃は、街の本屋さんに、ふらりと立ち寄ったのでございます。書店の名は――